聡明であることについて

中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書) 中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)



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極東ブログ ― [書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)



こちらも極東ブログで取り上げられていた。ので、興味をもって読む。



哲学の本はその昔結構沢山読んで、いろいろと得るものは多かった。特に既に亡くなられてしまった池田晶子の本は沢山読んだ、当時までに出ていたものは全部読んだ。彼女は小林秀雄に心酔していて、その影響で小林秀雄を読み始めるきっかけにもなった。これにはマジでかなり感謝している。



小林秀雄に心酔している人間は世の中に結構いるんだぁという事は、結構後になって知った。吉本隆明山本七平は有名。極東ブログfinalvent氏もそうだし、この前芥川賞をとった川上未映子もそうだ。



そしうした心酔者が多い故に、小林秀雄を馬鹿にするインテリも結構多い。下らんとか、近代批評を駄目にした張本人とか。まあ、そういう話は今回は関係ないのでしないけど、小林秀雄を馬鹿にする事で安心しているインテリなんて僕は信用しませんよ。。。と。



で、



哲学の本を乱読している時に竹田青嗣の本も何冊か読んだ。が、当時はそれ程関心を持たなかった。自分の興味はもっとアグレッシブな文章の方(特に小林秀雄の文章みたいに強烈なやつ)にあったので。(まあ、若いとどうしてもそいうものに惹かれる)



今でも竹田青嗣の本は殆ど読まないが、この新書を読んで、「ああ、確かに長年思索を続けた人の言葉だな」と思わせる静謐な感じの説得力はあった。



この『ちくまプリマーブックス』という新書は、対象が中高生というコンセプトの新書だが、およそ中高生では理解は難しいだろうと確かに思う。



極東ブログでも引用されているが、



世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません。これを理解できないかぎり、人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです。




『中学生からの哲学「超」入門』 p81


この腑に落ちるという経験をもつ中学生なんてそうそういないだろうから、この理解は、どうしても概念的なものになってしまうと思う。でも、本当に「腑に落ちる」というのは経験としてある。べつにそれで人が丸くなるとか善人になるわけでもないが、それはある意味で自分のそれまでの世界観を一旦うっちゃる事でもある。



極東ブログでは、



 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論ポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。

 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。なるほどそうかとも思う。




と書いてあるが、聡明になった人は、問うこと止めないようになる。ホントに死ぬまで問い続けるし、考える事をやめない。「問うても決着の出ない問い」であっても問うことをやめない。多少逆説的かもしれないが、それが「腑に落ちている」という事の意味でもあると思う。



で、本当に大変なのは、その腑におちてからで、腑におちた後も人生は続くし、人は社会の中で自分の位置づけを探していかなければならない。世の中には、「極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回す」人はたくさんいる訳で。それに、社会にいれば当然社会的な欲望とも折り合いをつけていかなければならない。本書で言うところの『一般欲望』とつける折り合いの事だ。聡明なった所で人は別に悟りを開いて坊さんになった訳ではないので、そういうものの中で人は簡単に聡明ではなくなる。



そこで、「自己ルール」の話になる。



社会の善悪のルールは、法律とはまた別に、ふつうの道徳とか、慣習(習俗)のルールと言われているものです。でも自分の中の善悪のルールは、これとはまた違うのです。自分の内の内的なルールを、私は、「自己ルール」と呼びます。社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します。



『中学生からの哲学「超」入門』 p141〜142


ここもまた難しいが、これも別に中学生が考えつく様な俺様ルールの事ではない。社会ルールと別個に、「自分の意志をもつこと」で、自分なりの欲望の昇華の仕方を身につける事である。そして、その「自己ルール」は相対的な常に再考され続けるものでもある。



個人的には「自己ルール」を「信念」と解してもいいと思っている。「信念」という何かしら不変のものというイメージがつきまとうが、それは単なる狂信で、本来は常に再考され続けるダイナミズムをもっている。



ただ、そのような「自己ルール」を持つことは簡単ではない。



神話や宗教などは、本来そういった「自己ルール」を作り上げる為の補助線として機能をすべきだし、哲学も本来はそうだろうと思う。それらは、ある意味で人が生きる上でのよすがとしてあるべきものだと思う。



けれども、それらは現代では補助線を引いてくれる程の力をもっていないし、宗教なんて昨今とっても評判がわるい。本来これは人を聡明にしてくれるハズのものだが、どうもそういう評判は聞かない。。。



「自己ルール」を持つことが簡単ではなくなってしまったのは、それら(神話とか宗教とか哲学とか)が、もう社会を横断的に説明してくれる様な大きな物語を提供できなくなってしまった為かもしれないし、単純にくだらん(あくまで他人からみれば)「自己ルール」を再編し続ける事なんて、大変だからかもしれない。



ともあれ、この2009年のこの国で「自己ルール」なんてもんを後生大事にしていくのは結構大変だし、そもそも自分自身に対して説得力をもった「自己ルール」を構築するためには、相当に知識を蓄えていかなきゃならない。でも、腑におちた人は、おそらく聡明である事をやめないだろう。それが腑に落ちる事の意味なので。



話は変わって、



今日は「衆院総選挙」で、まあ多分民主が政権とんだろう思いながらTVつけると、まあ実際その通りな訳だけど、ちょっと有権者の皆さんの態度は狂気が見え隠れして怖い。別に自民を弁護する訳でもないし、民主の理想高き(でも、根拠乏しき)マニュフェストもどうでもいいけど、社会のルールと「自己ルール」を混同しているのでは思わさせる有権者が多い。。。もちろん社会のルールを形成する為に選挙は大事かもしれんけど、怒りで投票してもどうにもならんと思うのだが。。。



べつに、自分は聡明な人間ではないけれども、くだらん「自己ルール」くらいはもっていて、それは社会がどうこうしてくれるもんではない事くらい知っているし、それでも、社会のルールがある程度は大事な事も自覚している。ただ、静かに思索を続けて行動する人の声はあんまり聞こえてこないもんだけれど、そういう人はいたるところいるもんだという事は社会に出ると学べるし、最近はそういう声しか聞きたくない。