世界のすべての七月

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ティム・オブライエン



文藝春秋 2004-03-11

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読み返すのは3度目。素晴らしい。感動的。



ティム・オブラインエンが描き出す群像劇。1969年に大学生であった人々の、2000年の同窓会が舞台。同窓会の話の合間に、個々の喪失の物語(人生) が挿入され、それぞれのキャラクターのバックグラウンドが明らかになるという構成。1つのエピソードが終わる度に、同窓会の出席者のメンタリティが1人づつ明らかになり、同窓生同士の喜劇としての掛け合いが、哀しみを帯びたものである事が見えてくるという仕掛け。いってみれば、アメリカ版団塊の世代の過去と現在といった内容。



基本的に同窓会から最後まで帰らない(過去の記憶に引きずられてる)人々が主人公なので、彼(彼女)らは、皆人生の落伍者といってもいい(もちろん、中には経済的は成功している人もいるし、一見私生活はハッピーである人もいるが、皆一様に精神的なトラブルを抱えているという意味で)。彼らは、その半生 (1969年〜2000年)の中で、消耗し、疲弊し、自分自身の人生に対する行動規範(モラル)を失ってしまっている。それでも残された良心に頼ってもたつきながら、新たなモラルを打ちたてる為、自身の人生を告白し、そこに光明を見出そうとしている。



と書くと、なんだか相当に湿っぽい陰気な小説だと思われるだろうが、著者はこれらの物語をファルス(喜劇)として描いている。それが相対化の作用と、彼(彼女)らの試みをより悲壮なものにする作用をもって、この物語に深みを与えている。



訳者の村上春樹は、あとがきでこの様に書いている。



僕はオブライエンと同世代なので、読んでいて「うんうん、気持ちはわかるよ」というところはある。世代的共感。五十代半ばになってもなお行き惑、生き惑う心持ちが実感として理解できるわけだ。でも、たとえば今二十歳の読者がこの小説を読んで、どのような印象を持ち、感想を持つのか、僕にはわからない。「えー、うちのお父さんの歳の人って、まだこんなぐじぐじしたことやっているわけ?」と驚くのだろうか?



まあ確かにぐじぐじしてるようにも見える。団塊の世代とは、時代に対してNO!と叫んでいた世代である。で、それ以降、時代に対して誰もNO!とは言わなくなってしまった。でもって、そのぐじぐじは連綿と続いている。



行動規範(モラル)はどこかへ行ってしまい、それと共に彼らは行き惑い始める。。。各エピソードにはその生き惑いが良く表れている。同窓会のシーンが各エピソードの合間に必ずあるのは、行動規範(モラル)が学生時代にはあったからだ(まあそれが錯覚でも幻影でも何でも)



そのモラルの幻想に彼らは苦しみながら、以後の人生を歩み、そして、行き惑い、生き惑う。そして、今でもその幻影を解体し、再構築しようと試みている。きわめて個人的な、人生の記憶から、何とか新たなモラルを引っ張り出そうと苦しみもがいている。その様な主人公達の切実さが、非常に心を打つ。



でも、時代のコンテキストに、こういう物語を入れると、滑稽で、ぐじぐじしているだけに、確かに見える。作者だってそれが分かっているから、この物語は最後までファルス(喜劇)の体を崩さないのだ。



つまり、現代においては、行動規範(モラル)なんてもんを築いて、それを後生大事に抱えて生きるなんて、ダサイくてやってらんないよ。という事になってしまったのだ。ご存じの様に。あるのは、情熱を持つ事を避けて、人生を知的なゲームとして捉える様々なバリエーションだけだ。思想なんでもんは死んで、人生を上手く現実的に生きるHowToの方が重宝がられる。でもそれももう限界で、そんなゲームに疲れた落伍者は沢山出ている。その例証を示すと話が逸れちゃうので割愛。



そうやって一巡りして、このファルス(喜劇)が成立する訳だ。滑稽でありながら哀しい、行動規範(モラル)に対する彼ら渇望が、妙に心を打つのは、人生というリアルへの渇望が今や当たり前になってしまったでもあるからだろう。



だから別に、ぐじぐじなんて思わないし、むしろそっからじゃないと嘘だろ思う。オブライエンの書く物語はそういう意味でとても誠実だし、個人的にはその誠実さを好む。