自分探しより楽しい「学問」

もちろん前回のエントリは、今回の枕です。



「自分探しが止まらない」速水健朗 著 (ソフトバンク新書)



という本が興味深い。視点も広い。新書で読みやすいので、出来れば読んで欲しい。(大体2時間弱で読める。)あなたが団塊ジュニア世代(1972年〜1981年生まれ)の近辺であれば、おそらく、思い当たる経験が幾つか書かれているだろう。(ちなみに僕は81年生まれ)


「自分探し」の定義は、この本を読んでもらうとして、



バックパック一つでの海外放浪、自己啓発新興宗教、ワーホリ

ニューエイジボラバイトホワイトバンドロハス、etc・・・。



という様な事が、自分探し、あるいはその派生系として取り上げられている。



なんか「自分探し」なんてテーマを持ってくると、否定的に受け取られるかもしれないが、この本のスタンスも、この僕自身のスタンスもそういう所にはない。



現に、僕の数少ない友人達の中にも、自分探しに奔走している人が何人もいるし、僕自身にしてみても、大学を中退して、別の大学に入りなおしたりしている。海外ではないけど、国内でバックパッカーもやった。就活で自己啓発を試みたが、上手くいかなかった。そして、こんなブログを書き綴ちゃったなんかりしている。イタイ子だ。↓極端なケースだとこんな感じになる。





著者は、それが社会的な構造に誘発された現象だと指摘している。80年代末から始まった個性重視の教育(それに続くゆとり教育)、就職活動時の自己分析、子供の頃から「やりたいこと」をやれ、という声が至る所から聞こえてくるのが、現代だと。世界の第一線で活躍するスポーツ選手(野球、サッカー、ゴルフ、フィギュアスケート)などが引き合いに出されて、早いうちから「やりたいこと」を見つける事は、良い事だ。の様に語られる。


(60年代末のカウンターカルチャー/学生運動、その後の経済成長/消費社会、バブルとその崩壊、といった文脈もあるけれど、そこは上記新書に詳しいので割愛)


僕も、とりあえず、その様な教育スキームの中で育ってきた。そして、さっきも述べた様に、それ自体が悪いとは思わない。「自分探し」をして、それで「やりたいこと」が見つかれば、それは、きっと本人にとってハッピーな事だろうから。


でもね・・・。当たり前の事なんだけど、ハッピーじゃない場合の結末もありますよ・・・・。という方の事は誰も言わないけれど、そういう事を語らないで、「やりたいこと」やれ!と言うのはやはり無責任だとは思う。でもって、ハッピーじゃない事になっちゃった人に向けて、「自己責任」はあんまりだ。とも思う。世の中には、イチローになり損ねた元野球少年のサラリーマンがゴマンといるはずだし、逆に言えば、そういう人達がいればこそ、イチローの人生が輝かしものしてメディアに乗っかる訳だから。


これ以上突っ込むと、青臭い、徒手空拳のつまらん社会批判になるので止めるが、上述の事が、「やりたいこと」をやれ!を補完する形で語られていないという事には同意してもらえると思う。


そして、「やりたいこと」をやれ!と言われながらも、それを見つけられなかった、あるいは、それを自分の人生、仕事に上手く結び付けられなかった人が、自分探しをやり始める。俺/私が求めているのこんな人生じゃない、俺/私にはもっと別の可能性があるかもしれないと思って。



ここまで書くと、なんとなく前回のエントリにつながる・・・。かな。



>でも、仁斎の講義と、現代スピリチュアル説教やHowTo本は、

>その動機やスタンスにおいて全く性質が異なるものだ。



前回のエントリの現代スピリチュアル説教は自分探しの事である。



仁斎の学問の話に戻ろう。



セレブ町人や、百姓が仁斎の講義を聞きに来たのは、もちろん、仁斎の講義が面白く楽しかったからだが、それだけではない。



仁斎の学問は、商人や百姓が自分の仕事の役に立つものだったのだ。もっと言おう。どうして生活したらいいかという事を教えるのが学問だったのだ。生活の知見なんていうと、古臭い言い方かもしれないが、それが当時の学問だった訳だ。


もちろん、スピリチュアル説教やHowTo本も生き方の方向性を教えてくれるものだけど、学問というのは、自分の仕事の生きる意味を結びつける、その結び付け方を教える。その点が違う。


小林秀雄はこんな事を言っている。


思想が混乱して、誰も彼もが迷っていると言われます。そういう時には、又、人間らしからぬ行為が合理的な実践力と見えたり、簡単すぎる観念が、信念を語る様に思われたりする。けれども、ジャアナリズムを過信しますまい。ジャアナリズムは、屡々現実の文化に巧まれた一種の戯画である。思想のモデルを決して外部に求めまいと自分自身に誓った人、平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない、働く事が平和なのであり、働く工夫からきた生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人。そういう風に働いてみて、自分の精通してる道こそもっも困難な道だと悟った人。そういう人々は隠れてはいるが到る処にいるに違いない。私はそれを信じます。



『栗の樹』〜私の人生観〜 p349 - 350


ここで言う所の「働く工夫からきた生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人。そういう風に働いてみて、自分の精通してる道こそもっも困難な道だと悟った人。」になる事が、すなわち学問だったのだ。


もう一度、


江戸時代の「学問」

  現代  の「自分探し」



と並べると、どうだろう。



馬鹿っぽい、安易なまとめ方だが、300年で人間(日本人)の知恵とでも呼ぶべきものは進歩しただろうか。という様な考え方をしてみる事にはある程度の意味があると僕は思う。



やってみたから分かる事だけれど、「自分探し」なんて馬鹿馬鹿しいものだし、ある意味で狂気に近い部分もある。自分探しが不毛なのは、「自分を探している自分はいつもの自分」というところに尽きる。現代スピリチュアル説教を聞いても、テレビを消せば、いつもの自分に戻る。海外放浪してみても、家に帰れば、いつもの自分に戻る。


「やりたいこと」を探す事は間違ってはいないけれども、ホントに面白く、やりたい事は、日々の生活、仕事の中からしか立ち上がってこない。自分の日々を見つめない限り、絶対に見つからない。でもって、「やりたいこと」が見つかると、そこに達する為のステップが100くらいある。でも本当の面白さはその困難をこなす中からしか立ち上がってこないし、それが市井の中で生きながらも学問をするという事だと思う。



という辺りの事が、社会人生活2年目を迎えて、ある閾値を越えて実感として少し掴めた感があるので、こんなエントリを書いてみた。


それなりにしんどい2年間だったが、それなりの意味があったという事だろう。



あっ、また深夜1時だ。寝なきゃ。