生きる事、学ぶこと、そういうものたち

仕事柄(SE)、日々勉強である。まだひよっこであるからして、精進である。



とはいえ、学ぶ事は楽しい。特に、未知の世界に足を踏み入れる時は楽しい。

もちろん、半分仕事なので(半分じゃマズイか・・・)、1〜10まで全部楽しいとはいかないが、

どんな仕事でも、興味を持てるポイントが一つでも見つかれば、人間は嬉々として取り組む。

面白いと思ったら、大抵の困難は乗り越える。人間の好奇心、驚くべき哉。



でも、ホントは、学んでいる対象に、哲学とか、情熱とか言うべき、

あからさまに語っちゃうと恥ずかしいものが見つかった時が、一番楽しい。

端的に言って、感動さえする。

この感動は、人を好きになる時の感覚にちょっと似ている。



そういう時、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、この世界の可能性とでも言うべきものを感じる事になる。世の中がっくりする事・人が多いけど(もちろん僕もいろんな人をがっかりさせてはいるけれども・・・ごめんなさい)、そんな中で、そんな些細な出来事で、この世界在り方をもう少し信じる事が出来たりする。



要するに生き方の問題なんだろうと思う。人間、長く生きれば生きる程、情熱とか夢を持ち続ける事が難しくなる。その種のものをしっかり持っていると、世の中に出てから変な所で損するし、要領よく切り抜ければいい所で、変に意地を張って苦労する事になる。だから、生きてく中で、自分の中のそういうものたちを少しずつ減らしていかなければならないし、ほっといても、勝手に削れていく。丸くなる。



でも、自分が本気で信じているものたちはそんな簡単にはいなくならないし、消えない。それが消えたら、自分というもの根拠が無くなるようなものたちだからこそ、人はそれを本気で信じる訳だし、それは自分と世界を分節する分水嶺だとさえ思う。自意識の権威であるかのデカルト翁ですら、この「信じる」という言葉の不可思議を説明する事が出来なかった。というのは有名な話・・・でもないけど、どっかで読んだ。



ともかく、いい年の、いつもは取り澄ました様な態度でいる大人の言葉の中に、そういうものたちを見つけた時、僕はハッとさせられる。そこに在る、ある種の不器用さとスキが、哀しさが、その人の最大の魅力となる瞬間だ。そして、それが新たな自分自身のそういうものたちの序列に加わっていく。



生きる事は、そういうものたちの得るためのトレードオフなんだろうが、そうであったとしても、やはり学ぶことは楽しい。