2012




今年見た映画の中では、ダントツの迫力、というか映画史上ダントツかもしれないけど。。。153分もの上映時間中でも、これでもかと畳みかけてくる連続大破壊シーンと、お涙頂戴シーンのおかげで全然退屈しない。頭も空っぽになる。映画の王道という意味では、これ以上のものはないし、こういう映画はやっぱり必要だと思う。



でも、『アルマゲドン』とかそういう時代からすると、だんだんと人類は為す術なしで、ただ逃げ惑うという方向性のものが増えてきたのは、なんだろうね。時代性だろうか。



今回のトンデモ大災害でも、やっぱり某国主導で人類生存大作戦が行われるんだが、軍はお世辞にもお役にたっているととは言えないし(てか出て来たっけ?)、大統領は感傷に浸って早々にお仕事を放棄してまったりと、頼りない事この上ない。



また、奇跡的な強運を持ち合わせた主人公達は、人の迷惑や犠牲も全然顧みずに、次々と危機を脱していく。その癖、自分達がピンチの時は、感動的なセリフを躊躇もせずに言うもんだから、冷静になると白けてしまう。



というか、実はドラマチックでロマンティックなストーリーの中に、物語を傍観する視点がちゃんと埋め込まれている。特に終盤で、大災害を傍観しながら、寺の鐘を打ち鳴らすラマ僧は、このストーリーの中にあっては異質とでも呼べる存在で、個人的にはそのシーンがこの映画中で一番美しかったのではないかとさえ思う。



逃げ惑う人類達は、10億ユーロもする『ノアの箱船』のゴールドチケットを求め、そのノアの箱船プロジェクトも、種の保存という大義名分を背負っている。また、船内で起きる主人公の自己犠牲の精神も素晴らしいものだろう。



だが、そんな人類を透徹した視線で見送るラマ僧が何故か一番人間らしく、というか一番美しい人間に映る。この微妙な演出に気がつくか、気がつかないかで、実はこの映画の意味づけは大きく変わってくる。素直にラストを迎えるとこもままならない。



そういう意地悪な視点をエメリッヒが持ち出した事は、僕の記憶している限りではないので、少なくとも気がつく人は気がついてね!という程度に意図はあったんだろうと思う。



という様なちょっとだけスタンスが複雑な作品だが、エメリッヒのこれまでの大作『インデペンデンス・デイ』や『デイ・アフター・トゥモロー』を遙かに凌ぐ迫力とスケールは、流石という他はない。これだけのスケールの映画を作れるのは、他はあのマイケル・ベイくらいしか思い浮かばない。



是非劇場でその迫力を存分に堪能すべき映画。



それと、キャメロンの『アバター』の新しいトレーラーで、もっと見たい欲が掻き立てられてどうにもならんかった。早く来い来い!12/23。


monkey business 2009 Fall vol.7 物語号

モンキービジネス 2009 Fall vol.7 物語号 モンキービジネス 2009 Fall vol.7 物語号

柴田 元幸



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物語号



巻頭の村上春樹のエッセイが素晴らしかった。



これは、スイスのザンクトガレン修道院図書館の記念カタログの序文として書かれたものらしいけど、こんな序文を読んだら、多分それだけで素敵な気分になれるだろうと思う。



最初だけ少し引用する。



  小説家とはもっとも基本的な定義によれば、物語を語る人間のことである。人類がまだ湿っぽい洞窟に住んでいて、堅い木の根を囓ったり、やせた野ネズミの肉を焙って食べたりしていた古代の時代から、人々は飽きることなく物語を語り続けてきた。たき火のそばで身を寄せ合って、友好的とはお世辞にも言えない獣や、厳しい気候から身を護りながら、長く暗い夜を過ごすとき、物語の交換は彼らにとって欠かすことのできない娯楽であったはずだ。

  そして言うまでもないことだが、物語というものは、いったん語られるからには、上手に語られなくてはならない。愉快な物語はあくまで愉快に、怖い物語はあくまで怖く、荘重な物語はあくまで荘重に語られなくてはならない。それが原則である。物語は聞く人の背筋を凍らせたり、涙を流せたり、あるいは腹の皮をよじらせたりしなくてはならない。飢えや寒さをいっときであれ、忘れさせるものでなくてはならない。そのような肌に感じられる物理的な効用が、優れた物語にはどうしても必要とされるのだ。なぜなら物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に越えさせなくてはならない。あちら側にうまく送り込まなくてはならない。それが物語に課せられた大きな役目のひとつなのだ。

 『monkey business 2009 Fall vol.7 物語号』p14〜15


聞き手の精神を転移させるという表現が、とても素敵だなと思う。



小説を読む人間が求めているのは、確かに、精神が別の世界に移ってしまう事で、優れた小説や物語は、おしなべて、現実をしばしば忘れ去れる力をもっているものだし、多くの小説や物語を好む人達は、そういった体験を求めて小説や物語を読む訳だ。文体がどうだとか、構成がどうだとか、やっぱそういう問題は二の次で、如何に読み手の精神を飛ばせるかが、良い小説や物語かの最初の判断基準になるんだろうと思う。



自分はあまり小説を好んで読む人間ではなけど、基本的に読書に求めている体験は、どれだけその本の中の世界に没入できるかだというのは同じだと思う。科学書ですら、その説明する世界観の魅力を感じとれば、しばし現実から精神は離れる。一番好きな作家の小林秀雄は批評家だけれども、あの力強い文体の魅力には、抗しがたく、心は純粋な思考の世界に没入する。



このエッセイでは、この後に物語そのものがもつ自律性について語られ、物語そのものはそれを生み出した作家に対してすらコミットメントを要求してくるという話に進み、それは非常に興味深い。



読者も同じように、物語によってコミットメントを要求される場合がある。もちろん、物語の大きな役目は聞き手の精神を別の場所に転移させる事にもあるとは思う。そして物語が終われば、聞き手の精神は自分の肉体に戻り、また現実が始まる。『ああ、おもしろかった』で終わる場合もあれば、その余韻がその日中は持続する場合もあれば、一週間続く場合もある。



でも、本当に優れた物語は、聞き手の精神を転移させるだけでは終わらない。その精神を変えさせてしまう程の強力なパワーをもっている場合もある。ある場合には、酔狂とでも呼べる状態にまでしてしまう事さえもある。



ジョン・レノンを殺害した、マーク・チャップマンは、殺害時、懐に『The Catcher in the Rye』を忍ばせていた。もちろん、それが全ではないが、『The Catcher in the Rye』がチャップマンに精神に多大な影響を与えたという事は間違いないだろう。その様に、物語というのはある場合には、非常に危険な存在にもなり得る。でもそこまで聞き手の精神に迫れる物語という意味で、やはり、『The Catcher in the Rye』は優れた小説だし、それによって救われている人間がどのくらい居るのかは見当もつかない。



ある小説や物語や本によって、人のその後の人生がガラッと変わってしまう。そういう事は、世の中では、結構な頻度で起きている。自分でもそういう体験は何度かある。別の世界に飛んでいた精神が、戻ってくると、現実がガラッと変わってまったく別のものに見えるようになっている。そういう体験を何度かすれば実感として分かることだけれども、現実もまた物語に過ぎないし、ある意味では、別の世界から転送されてきた精神がたまたま、今の肉体に宿っているに過ぎないと考えることはそんなに突飛な発想でもない。



物語とは、ある意味で現実を抽象化した存在に過ぎないけれども、それは、物語が現実を相対化できる力をもっているという事も意味する。そんな風に現実を相対化する力が、人に現実を生きる希望を与えたりする。そして、物語は自律性をもつものだし、それを生み出した作家が死んでも、何十年たっても、その精神転移の作用を残すし、ある場合には、その力を強めたりもする。もっと言えば、物語は現実の別の在り方に過ぎないのだ。だからこそ、実際の厳しい現実にすら拮抗できる希望にもなり得るのでないか?



このエッセイを読みながらなんとなくそんなことを思った。


平成オトコ塾

平成オトコ塾―悩める男子のための全6章 (双書Zero) 平成オトコ塾―悩める男子のための全6章 (双書Zero)



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文化系トークラジオLifeでのゲスト渋谷知美氏がキャラ的に面白かったので購入。内容は、文化系男子の為の人生指南書とでも呼べるもの。とりあえず、目次が凄いので抜粋。



第1章:その「男の友情」は役にたつか?

        1 頼りない「男の友情」

        2 女子から「癒し」を引き出す男子

        3 「男の友情」はしんどい

        4 「男の友情」から始める

第2章:「僕がキミを守る」と思っている?

        1 そのワナにご注意!

        2 二つの「守る」

        3 仕事を通じて「守る」、の問題点

        4 複線型「守る」ならOKか?

        5 「他力本願で何がわるい」という感性

        6 「守り-守られる」関係へ

第3章:非モテはいかにして生きていくべきか

        1 「非モテ」でもハッピーな社会を

        2 結婚資金提供案のダメさ加減

        3 恋愛機会提供案のダメさ加減

        4 非モテのサバイバル戦略

        5 非モテの「思想的セーフティーネット

第4章:暴力はなぜ、いけないか

        1 見たくないものを見る勇気

        2 男が男にする暴力とは?

        3 心に留めておきたい三つのこと

        4 男女間の暴力を考える

        5 では、男はどうしらよいか

第5章:包茎手術はすべきか否か

        1 若い男子をもっとも悩ませるのは?

        2 大事な性器がズタズタに

        3 不健全きわまりない包茎病院

        4 「仮性包茎包茎にあらず

        5 包茎をめぐる「常識」を疑え

        6 「江戸時代から包茎は恥だった」は本当か?

第6章:性風俗に行ってはダメか

        1 ダメかどうかを問う前に

        2 性風俗に行く男性は(おそらく)五人に一人から二人

        3 風俗嬢がしていることは「労働」である

        4 「セックスワーク」という概念

        5 性労働へのよくある批判

        6 もし風俗に行くのなら



この筑摩の双書Zeroというのは、今の20〜30代の若者を対象読者とした新しい批評系単行本という位置づけらしい。既存の社会構造と新しい価値観の狭間で苦しむ若者達への提言といった位置づけだろうか?



目次を見るだけでもかなり、センシティブな話題にバッサリと切り込んでいる。読んでいても、著者の歯切れの良さは結構気持ちいいものがある。



それぞれの章で、対象読者層の若年層男子が抱える問題に対する提言を行っているのだが、必ずのその前、既存のマッチョな男性観や、社会通念の見直しが行われ、その後に、今の社会状況からして、こういう結論になるし、それでもいいじゃん。もしくは、そういう考え方もあるかもしれないけど、こんな風に考える事も出来るとか、別に恥じる事はないよ!といった形でのアドバイスがおくられる。



今、既存の社会構造は大きく変化、あるいは崩壊しようとしている。大きくは経済問題があり、それに付随する雇用問題があり、その結果として結婚にも育児にも教育にもその歪みが連鎖的に発生している。少なくともその様に自分には見える。



というか、実は「しようとしている」でもなくて、状況は既に変わってしまった。ただ制度の方がそっちに追いついていないだけ。また価値観の方も、特に年配になるとそうだけど、全然追いついていない。という所で、その狭間で、若年層の苦しみが生まれる。特にマイノリティはキツい。



特に、もはやウンザリするがマッチョな男性観というのは多分に残っている。会社とかはやっぱり男性社会だから状況は結構酷いと思う。



そんな状況下で苦しむ若者に、「そんな下らない価値観は捨てちゃいなよ!」状況は変わったんだし、だったら、それに合わせた考え方があるし、ほらこんな風にも考えられるしさ。別に人と違ってもいいんじゃないと優しく諭す。



と書いてくると、女の学者に慰められているなんて男として云々。。。という声も聞こえてきそうだけど、現代の若年男子はそのぐらい疲弊しているという事かもしれない。



ただ、客観的に考えても、今のような状況は辛い。価値観の選択肢は非常に多様になった。草食系男子など言葉が市民権を得るくらいだから。でも、実際に社会の中で生きる上での選択肢はそれ程多くない。そして、社会通念とでも呼べるものは、社会制度とセットで旧態依然のままだ。だから、その自分の選択した価値観を守ろうとすると、必然的に社会と対立しなければならない自体になる。それが嫌なら、迎合するしかない。



もちろん、これは基本的に制度が変わっていかない限りどうしようもない問題である。でも、個人レベルで出来る事もある。



昔予備校に通っていた頃、小論文の先生が「本当に頭がいい人というのはね、人の気持ちが分かる人のことよ」と言っていて、それはそうだなと思ったものだけど、要するに、自分と異なる価値観を持った人を尊重出来るかどうかという、至極当たり前な問題をどう考えるかという事に尽きる。



もちろん、自分以外の全て気持ちが分かったらそれは神様だから、あり得ないけど、少なくとも自分に関係する人間の気持ちを汲む事は出来る。



一番最悪なのは、社会通念とか会社のルールとかを無批判に援用して、さも自分の意見であるかの様に、それは間違っているとか批判する人。居ますね。疲れますね。



その点本書は、こういう考え方にはこういう背景があるけど、でも今の状況とはマッチしないから、そんな風に考えて悩む必要はないと説く。そういう視点で今の若者を支える言論がこうやって増えてくるのは、状況が少しづつ変わろうとしているからなのかもしれないし、よい傾向だよなぁと思いながら楽しく読ましてもらった。

夏の魔物

4連休(月曜有休)の最後なんで、映画でも見に行こう思ってたんだけど、部屋掃除して、洗濯して、布団干して、冷蔵庫を掃除したら疲れて、出かける気を失う。



で、貯まってたpodcastを消化することにした。



文化系トークラジオ Life 「休日の哲学」




休日がテーマの回。



「あるある」という所では、



『休日は何処か外へ行かねばならん』的な強迫観念。確かに、休日に引き籠もって一日中家の中に居て、夕方になり、夕日で部屋の中が照らされたすると、妙な罪悪感に苛まれる。『ああ、無為な一日を過ごしてしまった』的な、誰もが経験するだろうあの感じだ!そして今まさに感じているこの感じだ!



でも、そもそも何で休日にわざわざ外に出かけて行かねばならんのだ!というスタンスがこのLifeのパーソナリティの基本的態度だ。特にゲストの渋谷知美氏が面白すぎる。



大体が、休日に外に出かけて消費をしようなんてのは、バブル崩壊前にメディアが仕掛けた刷り込みに過ぎないのではないか?実際に外に出ると、いろいろと無用なストレスも溜まるし、そんなに面白いものはそうそう無いのだ。ご存じの様に。そして外で消費を繰り返す度に少しずつ虚しくなったりするのだ。



そもそも、休日なんだから、休むのが目的なんである。家でダラダラすればいいじゃんという所である。休日まで、自己実現スキルアップの為に予定入れるなんて疲れちゃうだろう?



とまぁ、そんな調子なんだけど、大体同意。



家で本を読んだり、音楽聞いたり、買っておいたDVDを観たり、まあそうやってゆっくり過ごすのが、個人的には一番落ち着く休日である。



そうやって、家で過ごしていても、結構新鮮な発見はあるものだ。今日は、スピッツの古いアルバムが聞きながら、いろいろスピッツについて調べてたら、トリビュートアルバムがあることを知る。



一期一会 Sweets for my SPITZ 一期一会 Sweets for my SPITZ



ドリーミュージック 2002-10-17

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Amazonで中古品をポチっとやってから、どうしても聞きたくなって、youtubeとかに上がってないなぁと思ったら、ちゃんとあった。小島麻由美の『夏の魔物』のカヴァー。これがもの凄くよかった。オリジナルよりいい。



スピッツが流行った時代に中学生だった世代としては、いろいろ切ない。



僕は人生を巻き戻す

僕は人生を巻き戻す 僕は人生を巻き戻す

仁木 めぐみ



文藝春秋 2009-08-27

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強迫性障害に打ち勝った一人の青年と医師、そして周りの人々の話。



出かけた時に、家の鍵をちゃんと掛けたのか気になって仕方がない。そういう経験は誰しもあると思う。自分もたまになる。家からまだ近ければ、戻って確認する事もある。でも、ちゃんと鍵は閉まっている。



また、仕事中に、どうでも良い小さな事が気になって、仕事が手につかなくなる事がある。例えば、パソコンの散らかったデスクトップが気に入らない。アイコンがいつも通り並んでいないと気になって、整理するまで仕事に集中出来ない。



多くの人は、なんらかの形でこのような理不尽な行動をとる事があるだろう。周りからみても理不尽だし、自分でも意味がないと分かっていながら、やらずにいられない。



これが、エスカレートすると、

強迫性障害 - Wikipedia

という精神失調と診断される。



このノン・フィクションの主人公エドの強迫観念は、



「時が流れる先には死が待っている。時を巻き戻さなくては愛する家族は死んでしまう」



というものだ。



エドは、11歳の時にもっも自分を愛してくれ、家族の要石だった母をガンで失う。そして、その時に厳格な父の一時の気まぐれによって、初めて殴られる。その時から、エドは心を閉ざし始め、一人でビデオを観て過ごす事が多くなり始める。巻き戻しが出来るビデオに着想を得たエドは、自分でも時を巻き戻さなくてはと思い、自分の動作を巻き戻す儀式を始める様になる。



「すべてをビデオで映画を観る時みたいに何度でも巻き戻せば、起こった出来事を巻き戻せば、十分や十五分前に戻る事ができる。そうすれば、僕は年をとらない。それに僕の周りの人もみな歳をとったり、d・e・a・t・h に近づいたりしない」

「僕は人生を巻き戻す」p65より


この様にして、エド強迫性障害との闘いが始まる。



エドは自分の行った行為を完璧に記憶し、それを必ず巻き戻す。自分の手がどこに触れたか、足がタイルのどこを踏んだか、それらを完全に記憶する。そして、自分が時を進めた場合は、必ず巻き戻しの儀式を行うようになる。



そのうちに、エドは地下室に閉じこもるようになり、自分の便や尿をジップロックやペットボトルに保存し始める。巻き戻しが出来るように。また、シャワーも浴びないし、服も着替えない。それらは、すべて時を進める行為に他ならないからだ。異臭漂う地下室に幽閉されたエドは、24時間そのような苦しみと闘い続ける。



そんな事をしても、どうにもならない事は自分でも分かっている。エドは全くの正気なのだ。でも、時を巻き戻す儀式を行わずにはいられない。それが脅迫性障害という病だからだ。



そんなエドの元に、脅迫性障害の第一人者である。マイケル・A・ジェナイク氏が現れる。本書では、かれの生い立ちについても触れられる。本当に患者思いの医師の鏡と読んで差し替えない人物だ。他の医師が匙を投げた患者でも、マイケル医師はあきらめない。



エドの元を訪れたマイケル医師にエドも信頼をおき、治療を進めていく。



と、こうなると読者としては、このマイケル医師がエドの病を治癒していくんだろうなぁと想像するだろうが、なんとこのマイケル医師はエドのあまりの深刻な症状に、遂には匙を投げて、エドの前で泣き崩れてしまうのだ。そして、このマイケルの涙がエドの心を奮い立たせる事になる。



  一九九八年三月、マイケルはケープコッドを訪れた。自分の幅広い経験と現在あるたくさんの薬と革新的な療法をもってしても、エドにしてやれることはもう何もなかった。そして彼は初めて会った時とは別人のように哀れに衰えたエドが、腕をゾンビのように広げて階段を上がってきて、なんとか最高の笑顔を浮かべようとしているのを見た。マイケルの人生でこれほど悲しく、絶望したのは初めてだった、この日、ザイン家のリビングのソファに座ったマイケルはエドの目も気にせずに泣いた。こんなにも病んでるエドがどうして笑顔を浮かべることができるのだろうと思いながら。

  皮肉なことに、このときの、エドを思うマイケルの涙がエドを動かし、治癒の経過も彼の人生も変えることになるのだ。


「僕は人生を巻き戻す」 p154


その時の自分の気持ちをエドは次のように語っている。



「ジェイナク先生がリビングで泣いた日、僕はものすごく腹が立った。脅迫性障害は僕から人生も幸せも奪っている。それなのにさらに大切な人を傷つけられ、つからった。だからいまいましい脅迫性障害をぶちのめしてやりたくなった」

「僕は人生を巻き戻す」 p156


リビングでマイケル医師が泣いた日以降、マイケル医師は、エドの元を訪れなかった。電話での連絡はとりあっていたものの、その後一年はエドの元を訪れることは無かった。



そして、ここからが本当に奇跡的展開となる。エドは、周囲の人に支えられながら、猛烈な勢いで治癒していく。それは本書を読んで確認して欲しい。



エドの生い立ちを読めば分かるが、とても心優しい青年だ。自分の病に無理解な父親の死を本当に恐れているのだ。もう誰も失いたくないと。誰も傷つけたくないと。そのエドの思いの強さには、並々ならないものがある。



だから、自分の為に泣いてくれたマイケル医師を見て、心決めたのだろう。この瞬間にエドは内面の強さを取り戻し、強迫性障害によって傷つけてしまった周りの人々に為にもと、この病との闘いの覚悟を決める。自分の為に闘うのでなく、もう自分の周りの人間を誰も傷つけず、悲しませない為に。



その後のエドは、結婚し子供をもつまでに回復する。しかし、強迫性障害が治癒した訳ではない。強迫性障害に完治はないのだ。エドはただ、その病をコントロールする術を身につけただけに過ぎない。彼は、家族や周囲の人々を傷つけ、悲しませない為に、今で強迫性障害と闘い続けている。



多かれ少なかれ、人は強迫的な部分を持っている。自分の信念とかプライドだって、ある意味では、強迫的なものだし、場合によっては、自分自身や周囲の人間を傷つける。そういう視点でみると、エドの物語はとても示唆的だった。



エドは、その優しさ故に、強迫性障害に陥り、その優しさで、強迫性障害と闘ったのだ。

沈まぬ太陽




山崎豊子の長編小説の初映像化作品。3時間22分という大長編映画になったが、観ていて退屈になるという事はなかった。



この人の作品は、一応はフィクションではある。『白い巨塔』『華麗なる一族』今TV放送中の『不毛地帯』もみな一応はフィクションではある。だが、ご存じの様に読者に明らかにモデルが想像出来る形で、実話をそのまま殆ど脚色なしで用いる。

山崎豊子 - Wikipedia



特にこの『沈まぬ太陽』は、明らかにJALがモデルなので、結果として強烈なJAL批判作品になっている。飛行機のシーンもJALの協力は得られなかったようだ。まあ当然だろうけど。現実のJALは今にも沈みそうなので何とも皮肉なタイミングでの公開だが、それはJALはこの映画化を阻む事が出来ない程疲弊しているということでもあるのかもしれない。



主人公の恩地は、もう考えられないくらいの忍耐のお父さんである。それでいて、決して自分の信念は曲げない。こんな強い人間はそうそうないだろう。映画のメッセージとしても、この恩地をある種、日本人の美点を集約したイコンとして描いている様だ。当然美化しすぎという批判もあるが、制作者サイドからすると、それは批判にならないだろうと思う。



ただ、この恩地が輝くのは、国民航空(NAL)が考えられないくらい腐った体質をもっているからに他ならない。もう信じられないくらい隅々まで腐っている。自分の利権の事しか頭になく、決して責任を真正面から引き受けない経営陣。それも属人的な問題ではない。人が変わったところでその体質は変わらない。その腐ったルールに合わせる事の出来る人間しか決して上に行けないという構造的な問題。でもってそのスケールがでかいから、どうにも身動きがとれない。恩地の情熱をもってしても会社は一ミリも動かないのだから凄まじいものがある。もう、暗澹たる気持ちになる。そして、こっちは恩地と違って、現実世界と地続きだよなと思わせる強烈なリアリティがあるから、なんとも言えない。。。



また、この作品はある意味ではとてもタイムリーでもある。今、日本を襲っている不況は、日本企業の暗部を図らずも炙り出す形になっている。この映画の国民航空とはいかないまでも、この様な経営体質はある意味で日本企業の典型的な形であるからだ。その中で、再建をかけて体質の膿をだそうとする企業もあるし、そのまま沈没していってしまう企業もある。



もちろん、原因は不況だけではない。既に日本経済は成熟し、高度経済成長期のような爆発的な飛躍は訪れない。だが、企業の体制は、高度経済成長期の時ままを維持しようとしている。終身雇用と年功序列は、まさに高度経済成長期の遺産といっていいだろうと思う。それは、未開のマーケットを焼き畑を行うように爆撃する事が出来る余地があれば、維持出来るものかもしれないが、既に未開のフロンティアはそれ程残されていない。そんな中で企業の舵取りをしていくのは、以前ほど簡単ではないから、国民航空の様な腐った体制の企業は真っ先に潰れていくだろう。



確かにこの映画は極端な脚色がある部分もあるが、一体今企業とはどうあるべきかという示唆をあたえてくれる。その意味では、非常に鋭いメッセージをもっている作品で、本格社会派作品と言っていいだろう。



山崎豊子は小説家であるから、最後に恩地に希望を託す形で幕引きを行ったようだが、一体現実的な解答というのは何処にあるかという事は、観た後に考えざるを得ない。