時を超える神話

時を超える神話 (キャンベル選集) 時を超える神話 (キャンベル選集)

Joseph Campbell



角川書店 1996-09

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浅学菲才なもんで、読むのに難儀したが、興味深く神話というものを捉え直す視座を与えてくれる。また、語り口も上手い。で、『生きるよすがとしての神話』を読みたいわけだが、絶版な上に、中古も5000円以上する。高いよ。。。



『千の顔をもつ英雄』が『スター・ウォーズ』サーガのベースになっているのは有名な話だが、ルーカスが、なぜキャンベルの神話学に触発されたかは、この本を読むだけでもよくわかる。これほどまで魅力的に神話が語られるとは。そして、村上春樹もキャンベルを読み込んでいる。



いいなと思った部分を幾つか引用する。



ブッダが生まれ、神々が彼を黄金の布で受ける。するとこの子は七歩進んで、右手を挙げ、左手で地を指し、「天上にも天下にも、私のような者は一人もいない」と宣言します。



ブッダはそれを自覚するために修行などしうる必要などありませんでした。生まれながらにしてそのことを知っていたのです。鈴木大拙は米国で仏教についての最初の公演旅行をしたとき、こう言われました―「実におかしなことですな。生まれたばかりの赤ん坊がそんなことを言うなんて。本当は長い長い期間を経て、菩提樹の下で悟りを開き、自分の精神の誕生を見てからようやくそう言ったはずだと、みなさんなら思われるかもしれぬ。しかし、われわれ東洋人にとっては、万事いっしょくたです。われわれは精神生活と物質生活とに大きな区別を設けません、物質的なものは精神的なものを表わしておるのです」。・・・中略・・・



鈴木大拙はようやく話の要点に到着しました。「赤ん坊は生まれたとき必ず泣くそうです。なんと言って泣くのか。赤ん坊は『天上にも、天下にも、私のような者はいない』と宣言しているのです。あらゆる赤ん坊はブッダ・ベビーですからな」



赤ん坊はみなブッダ・ベビーである。それはこれまでも述べてきたすばらしいエネルギーの無邪気な顕現です。では、そんじょそこらの子供とマヤ夫人の子供とはどこが違っていたのでしょう。マヤ夫人の子供は自分がブッダ・ベビーであることを自覚していました。仏性のいちばん肝心なところは、あなた自身がそれを自覚することです。それには大きな努力が必要です。主な理由は、社会が「おまえはそんな者ではない」としつこく言い続けていることです。

『時を超える神話』 p120〜p122


私はときどき、「どんな儀式をしたらいいんでしょう」と聞かれます。みなさんはちゃんと儀式を持っています。でも、それについて瞑想していない、毎日食事をする。それは立派な儀式です。いま自分がなにをしているのか自覚することを心がけて下さい。友達になにか相談をする。それも儀式です。その意味を考えることです。子供ができる、子供を産む。それ以上のどんな儀式が必要だというのでしょう?

『時を超える神話』 p203


禅が取り組む問題のひとつは「経験する」ということです。人々は人生の意味を学びたいとよく言います。人生に意味はありません。花にはどんな意味があるのでしょう。私たちが求めているのは人生経験です。経験する事です。ところが実際には、経験から離れて、ただあくせくと目の前のあらゆる経験に名前をつけたり、分類したり、それを解釈したりしている。あなたは恋に陥る。さて、それは結婚を前提としたものか、それとも不倫か、それとも……と、分類をしているうちにその経験が失われてしまいます。


『時を超える神話』 p214


物語というものがどんどん現実から遊離してしまいっている。その力が失われている。キャンベルが抗しようとしたのは、そのような現代であったのか。。。



「経験」というのは、誰でもするものだが、「経験」というものは、因果律で説明できるというのが、相変わらず、現代人の最大の病だろう。合理的な説明が何でもできると思う。そう思い込む。まあ、説明出来たとして、説明したとこでどうすんのか?納得出来る説明があればそれでいいのか?そういう事を考えないといけない。そうすりゃ、経験の「質」というものは上がるのか?そうではない。と思う。



橋本治が、少し側面は違うがこんな風に言ってた。



感情が先にあると現代人は思いがちだけど、感情は後からくるものなんですよ。日本人はズッーとそうです。

…中略…

情景が先。

…中略…

自分の中の言葉を誘発してくれるんですよ情景は。だから、自分の中に言葉の蓄えがなかったら情景見てもなんにもなんない。

…中略…

言葉を用意しないと、情景をみても綺麗に思えない。

…中略…

ただ、その美意識ってやっぱりわかりにくいんですよ。わかりにくいから、もうちょっと、わかりやすくしようとすると、論理的な文章になっていくのね。論理的で理知的な文章になっていくと、恋愛みたいな曖昧なものって捉えにくくなるんですよ。現代で自然描写だ情景描写だとかって、やれない。やると笑われる。それくらい、ダサイに近いくらいのところがあって、現代でやるんだったら、源氏でやった事の90%は切り捨てないと無理です。

…中略…

それは自然がないのと、人の心理が大きくなりすぎている。だから、人の心理という大気汚染が、情景という空気を窒息させていると言った方がいいかもしれない。

…中略…

もう大きな自然がなくなりつつあるから、情景と心理というのはどっちが先なんだという話をもういっぺん意図的に考えないとそういうものを取り戻すのすごく大変だと思う。





合理的で理知的な説明というはとっても便利だけど、それは自然の世界と価値の世界を簡単に分断してしまう。果たして、それはそんな簡単に分断出来るものなのか?そういう事をよくよく考える必要は、やっぱりある。現代というは、その様に、価値の世界が、人の心理として充満してしまった時代なんだろう。



でも、その世界だけだと人は理性的になり過ぎるし、自然というものがあれば、今でも、それはもっともプリミティブな物語を人に与えてくれる。情景はそれを感じるに人間に言葉を産み出させる力を持つ。物語というのは、人が経験を受け入れるときのもっとも最適化された形だろう。そんな風にも思う。そして、神話はやはり自然から発生したし、それはあらゆる物語構造のスーパークラスである。



物語によって、人は本当に何かを体験する。少なくとも、経験の「質」というのはそういう風にしてしか上がらない。人生を物語を読むように体験する事が難しくなってしまったのは、多分上に書いた事と無関係ではない。



だから、キャンベルは『神話を生きるよすがとせよ』と訴えて続けたのだろう。それしか、経験の「質」を上げる方法はないだから。でも、まあ自然と情景が失われつつある現代でそれを取り戻すのやはり至難の技かもしれない。でも、人がこれほどまでに物語をというものを求めている時代もまたないのかもしれないな。



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